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新英語教育研究会神奈川支部HP

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★山田太一(NHKラジオでの講演)2006

●講演:「人間を考える ―時代を見つめて」
山田 太一さん(脚本家・作家)
◆ 2006年1月2日(月)午前7~8時ラジオNHK第2「NHKカルチャーアワー」での講演。テレビドラマを自ら振り返りつつ、日本が歩んできた戦後の時代を鋭く洞察されています。
●『岸辺のアルバム』と家族
・ ドラマ『岸辺のアルバム』:地震や洪水などですべて持っているものがなくなってしまうと、そこから「始められるような気がする」。そういうことをドラマ『岸辺のアルバム』で描いた。(脚本を書くにあたって)実際に多摩川の洪水で家を流された家族に話を聞いたが「アルバムはかけがえのないもの」と言った人がずいぶん居た。
(ドラマの中では長男が「こんなアルバムはインチキだ」というシーンがある。不倫に走った母親やアメリカ兵に強姦された姉がアルバムの写真に笑顔で一瞬の中におさめられているが、本当の家族はバラバラだということを言う。)
●『想い出づくり』と女性
・ ドラマ『想い出づくり』:「男女の主人公二人がいて脇役がいる」というようなドラマではなく、3人の女性が主人公というドラマ。女優さん3人には「あなたが主役」とささやいて本人もその気になる作品を作りたかった(これが登場人物がみんな主人公の『ふぞろいのリンゴたち』につながっていく)。
・ 「女性はクリスマスケーキ」への反発:そのころ落語家の文珍さんが「女の人はクリスマスケーキで、クリスマスケーキが12月25日を過ぎると安くなるように、女性も25歳になると安くなる。」というネタをやっていて、娘2人と息子1人のいる山田太一さんは憤慨した。
・ 過激だった若者:結婚式場の控え室に立てこもり、結婚式を台無しにするシーンがある。
●1982年「笑っていいとも!」の時代
・ 日本人の価値観の転換点は1982年「笑っていいとも!」:1982年はテレビ番組「笑っていいとも!」が開始した年。戦後、日本人はそれまで物質的に豊かになってきていても心の中は不幸だと感じていた。この番組タイトルの「笑っていいとも!」にあるように、「笑っていい」すなわち、幸福と思っていいんだと価値観が転換した。
・ 新しい問題は「悩みが言い出せなくなったこと」:それまでは男性でモテる人は、髪をかき上げる深刻なかんじの男性だったが、そのころからギャグが言える面白い人やイケメン(格好良くハンサムな人)になった。それと同時に人々は自分が抱える深刻な悩みを言い出せなくなった。[この洞察がするどい!]
●やせ我慢の美学
・ 坂口安吾vs.小林秀雄:この2人の対談で坂口安吾は「顔色を変えた方がいい」と言ったら、小林秀雄は反対した。[ここのところはうまく聞き取れませんでしたが、山田さんはこの後の渥美清さんと沢村貞子さんの「やせ我慢」の話につなげたのだと思います]
・ 渥美清さんと沢村貞子さんの「やせ我慢」:渥美清さんは病気で苦しい中、撮影に耐えて亡くなった。沢村貞子さんが白髪になり医療を断って死を受け入れて亡くなっていったのを目の当たりにして、その生き方、やせ我慢に感動した。
山田さんの意見:「私たちは『そのままでいい』という肯定的な価値観に浸りすぎていないか?」
●『異人たちとの夏』と個人の孤独
・ 能力主義の時代へ:このころから女性が強くなる。男性だから敬意を表されるという身分が消し去られていった。能力主義の時代になった。
・ 断片化の時代へ:組合で権利を戦い取るのではなく、個人に責任があると考えられるようになった。しかし個人では能力を維持することは難しい。そこで個人の孤独が発生する。たとえば女性が働きにでると「自分はパートだがあの女性は活躍している」と思っても「個人の能力」なのだからと、文句も言えない。
山田さんの意見:「能力主義への反感がある」
・ ドラマ『異人たちとの夏』:脚本家として50代でネタ切れで空っぽな感じのする、疲れた自分がいた。クタクタになったので故郷の東京浅草に行ったら「根」になるものが見つかるのではと思い、実家の跡地に立っていた浅草ビューホテルに泊まり、木馬亭に行って、地方廻りの剣劇を観た。すると前の席に座っていた老人が亡くなった父の姿に見えたので、休憩時間に前に回って見たら全く似ていない人だった。そのまま劇場を出て夜道を歩いていたとき「何故、あの人の顔を見たかったのだろう?」と考え、「今、前方から父が出てきたらうれしいのではないか?」と思ったのがきっかけで作品が生まれた。
・ 断片化される社会の中で「全肯定されたい自分」:現実の父が現れたらうれしくないと思うが、親だが(幽霊で異人となった)父なら全肯定してくれると思った。現世では自分のことを全肯定してくれる人がいない(妻もしてくれない…)。
・ 断片化される社会の中で「弱者に冷たい」:日本の社会は分断されていて、みんなかなりキツくなっている。能力主義の世の中で勝った人にはケシカランとは言えないために、弱い人に冷たくなった。「月給が低いのは本人が悪い」という考え方。
木下恵介監督の『野菊のごとき君なりき』には今の世の中なら「なぜ強くならないんだ!」と言われそうだが、弱い人を(やさしいまなざしで)描いていた。弱い人に対するセンス(感受性)が弱くなっている。
ドラマ『日本の面影』の中でのラフカディオ・ハーンのことばで言えば「小さなものの不合理な思い」を世の中が認めなくなってきたと言える。
・ 断片化される社会の中で「お互いの内面がわからない」:こういう世の中では「なぜあの人が?」と思うような人が殺人をしたり、ヨン様のファンになったり(!)する。
●自分の限界を知る
・ 「可能性がある」という流れ図では「自分が愛せない」:よく「可能性があるなら追うべきだ」とか「あきらめてはいけない」「乗り越えていける」ということを言う。しかし(この流れ図でいくと)常に「乗り越えるべきもの」があり、それに「至らない自分」ということになり、自分に満足しないから、自分を落ち着いて愛せないことになってしまう。
山田さんの意見:死という限界がだれにもある。また死だけではなく「老い」「生年月日」などさまざまな限界があるのを認めよう。スローライフや日々を味わうには「自分の限界を知ること、認めることで自分が愛せるようになり他人も愛せるようになる。これは可能性を追う中ではできない!」
●会報担当の感想
・ 能力主義のキツさ:個人の能力を問われるキツさを感じる中、それを乗り越え『異人たちとの夏』を書いた山田さん。自殺した脚本家野沢尚さんのことが頭の中にあったと思う。
・ 肯定と否定のはざまで:「可能性を追い求めすぎると常に自分は『至らない自分』になってしまう」という「自分が認められない」話がありましたが、この否定が短絡的に「肯定しすぎること」に至ることなく、否定と肯定のはざまにある「やせ我慢の美学」があることに気づき、私たちが実践できるかどうか…。それが問われている。

 例えるなら、拒食症は過食症に反転しやすく、両者は目に見える現象は違うが目に見えない本質は同じ「愛情不足」であると私は思っている。両者の「はざま」にある地点に落ち着くにはどうしたらいいのか。打開するには、江原啓之さんが言うように赤ちゃん時代に誰かが育ててくれたからこそ今の自分が居り、愛情がゼロということはない、そこに感謝の念を持つこと、「ありがとう」と認めることからスタートする、ということなのだと思う。


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